カテゴリ: 高取町の古墳・遺跡・名所

皆様方こんにちは。
ごぶさたです。
大分更新してなかったです。
5月に携帯会社に行きまして
スマホ機種変更しました。
画像が記事に貼り付けることができるか?
テストします。
DSC_0453
↑高取町の無名の古墳
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↑与楽鏆子塚古墳
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与楽カンジョ古墳の全景。

以上テストでした。

皆様方こんにちは。
与楽カンジョ古墳見学後
こんな標識を見つけました。

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この丘陵に貝吹山城跡があります。
小心者のブログ主はさすがに山道は行けず諦めました。

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この丘陵の上にあります。

資料によると
貝吹山城跡(かいぶきやまじろあと)

高市郡高取町越智の居館・越智城を本拠地とした越智氏の山城で、高取町と接する貝吹山の頂上、標高210m付近にあります。築城は南北朝時代(14世紀)とされています。越智氏はこの山城以外に高取城・佐田城(高取町)や玉手城(御所市)の山城を有していました。城の発掘調査が行われていないので詳しいことは不明です。
現在は、南北方向の頂部の曲輪(くるわ)と崩壊した石垣が確認できるに過ぎませんが、主郭を中心に四方の屋根上に諸郭が設けられ、連郭を成していたようです。越智氏は、応仁の乱(1467~77)前後の室町時代後半(15世紀末)にその最盛期を迎えます。しかし、戦国時代(16世紀中頃)になると他の国衆と同様に幾多の戦乱に参戦し、貝吹山城も戦場と化したようです。そして、永禄十一年(1568)に織田信長方の松永氏との合戦で越智氏は敗れ、貝吹山は落城しました。

越智氏の居城ですね。
松永久秀てあまりいいイメージ持ってないです。
多聞城を作るとき
聖武天皇陵を取り込み
さらに隣の光明皇后の陵墓を破壊?したので……。
結局松永久秀氏は討たれてしまいますが……。
ってな事を思ったある秋の日でした。
ではまた。

皆様方こんにちは。
きのうの続きです。
与楽鑵子塚古墳近くに
古墳の石室らしきものが

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↑何枚かのカバーシートが
かけられていました。

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↑歩く途中に石材が散在してます。

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ここに石室があります。

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石室から少し離れた位置から撮影。

この古墳又は石室墳は遺跡地図によると

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番号か317。
とあるサイトみたら
この石室を思い出しました。
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page158.html

このサイトの方はこの古墳を
与楽鑵子塚古墳と勘違いしたらしいです。
トラウマって……(汗)

話を戻して直径約10mで横穴式石室を持つと遺跡地図に書かれていました。
調査は途中で終わったっていう感じですね。

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この上にある丘陵状も古墳なのか?
調査が待たれます!
ではまた。

皆様方こんにちは。
与楽鑵子塚古墳を再見学しようとしたら

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↓こんな光景が

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↑調査中?
ちょっとだけそこまで歩いてみたけど……(汗)

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シートがかけられていました。。。
スマホからの更新のため
画像貼り付けが限られてます。
ので明日また記事にします。

皆様方こんにちは。
与楽カンジョ古墳の続きです。

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石室内に入ったら電灯点灯するのは昨日書きました。

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↑天井です。

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石室から外を覗く。

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テラス下から墳丘を見る。

規模は一辺が35m、高さ11m、2段築成、の方墳で石室は南に開口しています。

石室は両袖式横穴式石室、羨道部3m、幅1.3m、玄室部長さ5.6m、幅3.5m、高さ5.1mで巨石を4~5段積みで持ち送りによるドーム型になっています。

しかし石棺と出土遺物は不明です。
築造年代は7世紀前半と考えられています。
被葬者は渡来系の方とみられています。
地図を。

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遺跡番号114です。

交通手段は……。
ローカル路線バス乗り継ぎの旅みたいに
路線バスありません。
近鉄飛鳥駅を降りて西に多分30分かかると思います。
蛭子さんは歩ける距離かも?です(笑)
ではまた

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